「……大丈夫? 和仁さん」

 手が、肩をそっと撫ぜている。衣を緩ませ、簡易に褥を敷いた畳に横たわる和仁のそばには、花梨と泉水がいた。和仁は深い呼吸を繰り返しながら、力なく前方の庭を見つめていた。朝に寝ていた場所に戻ってきてしまったのだ。せっかく外に連れ出してくれたというのに、こんなにも早く帰らざるを得なかったことが花梨に申し訳なかった。

「少し落ち着いたようですね」

 安堵の混じる声が、上から降ってくる。静かで、優しげで、温和な声だ。花梨の喋り方と、少し似ている。

「和仁さんは、喘息持ちなんですね……」

 知らなくてごめんなさい……。花梨は悲しげに呟いた。知らないのは当然だ。要らぬ心配をかけさせないために、発作が起きているときの自分を見せないようにしていたし、そのために彼女と会っている間は激しい運動を避けるよう心がけていたのだから。
 和仁はゆっくりと身体の向きを変え、天井を仰ぎ、自分を覗き込んでいる花梨を見た。

「今日は、朝から続く寒さが堪えてしまったようだ。神子のせいではない」
「……」
「そんな顔をするな」

 片手を上げ、花梨の頬を指先で撫でる。彼女は眉をハの字に下げて和仁を見つめていたが、女房がやって来て、時朝の準備を手伝ってほしいと言われると、和仁さんごめんねともう一度謝り、奥へと消えていった。
 泉水と二人で室に残される。気まずい空気があることを両者ともに感じ取っていた。彼の顔が視界に入るのが耐えられなくて、和仁は再度、庭の方に身体を向けた。

「……迷惑をかけた」

 和仁の呟きに、泉水は「いいえ」と笑みを含んだ声で返した。

「今日は大変冷え込んでいます。乾いた空気が、お身体に障ったのでしょう。今は落ち着いたご様子なので安心しました」
「泉水、殿、と顔を合わせるのは、久しぶりだな」
「え? え、ええ……そうですね。すみません、私が急に現れたことで、驚かれてしまったでしょう。発作も、それが原因だったのかもしれません……」
「気にするな、お前のせいではない」

 雪は、朝と変わらない様子で降り続いていた。地面に向かって静かに落ちるだけだが、その様子はとても無感情で、止むことを知らないようだった。この先も降り続け、夜になる頃には、都は深い雪に覆われることだろう。
 雪が好きか嫌いかと問われれば、嫌いだった。宮中の誰からも、東宮の権威争いで"負けた"ことを密かに嘲笑されていて、寒々しい雪の日は、残酷なまでに白い世界で、ますます孤独の寂しさを感じていた。そんな中で、時朝だけだった、宮さま、と言いながら微笑みかけてくれたのは。彼だけだったのだ、真の優しさを抱いて和仁を支えてくれていたのは。呪詛の生贄にするという、絶対に許されてはならない罪を主は犯してしまったのに、今でもなお彼は献身的に和仁に寄り添ってくれていた。それに気付いた今、彼の存在があまりに尊くて、このことを想うたびに和仁の目からは涙がこぼれるのだった。
 冷たく凍える雪を、自分はいつか好きだと言えるようになるのだろうか。
 今はまだ、よく分からなかった。

「泉水殿」

 和仁は庭を見つめたまま、静かに告げた。

「あなたには、大変な迷惑をかけた」
「えっ……」

 和仁の物言いに困惑し、泉水は思わず声を上げて身じろぎしたようだった。衣のこすれる音が聞こえる。

「い、いえ、迷惑など……そのようなこと、思っておりません。わたくしの方こそ、至らぬことばかりで、み……和仁殿に、不快な思いをさせてしまっていたことを深く反省しています」
「自分を卑下するな。お前を貶める母は、もういないのだから」

 和仁の一言に、泉水は息が止まったように押し黙った。

「……」
「私の中で、もはや彼女は他人だ。思い出したくもない。だが、それでも、私を生んだ母には違いない」

 和仁は、どうにか力を入れて気怠い身体を起こした。泉水が慌てたが気にせず、彼に正面を向いて、あぐらをかく。泉水は目をしばたたかせ、少し緊張した様子で和仁を見つめた。和仁もまた、真剣なまなざしを従兄弟に送った。目の前にいる慈悲深く美しい公達は、自分よりもずっと高貴であり清らかで、上に立つ者として相応しいように思えた。
 本当は、この男性こそが東宮になるべきだったのだろう。

「我が母が、長いあいだ泉水殿を苦しめたことを詫びる」

 和仁は頭を下げた。それは、二人の属する世界では、非常に重要な意味を持つことだった。しかし今、和仁は、ひとりの人間として、自分の血族が相手を傷つけたことに対し、純粋に謝罪したいと思っていただけだった。泉水は「やめてくれ」と両の手のひらを見せたが、いつまでも和仁が面を上げないことと、この謝罪に和仁個人の強い気持ちが込められていることを感じ取ったのか、抵抗をやめた。そして、なぜか泉水までが頭を下げた。

「わたくしこそ、あなたの御心を汲み取ることもできず、優柔不断な態度で不快な思いをされたことが多々あったと思います。大変申し訳ございませんでした」

 彼もまた、叔母のことには触れなかった。
 そのうち二人はゆっくりと顔を上げ、どちらともなく小さな苦笑を浮かべた。

「……すまぬ。似合わぬな、このようなこと。私には、あなたに詫びができる資格すらないというのに」
「そのようなことは……。和仁殿も、大変おつらい思いをされたことでしょう。わたくしにできることがあれば、なんなりとおっしゃってください。今はまだ宮中はざわついておりますが、これでもわたくしは和仁殿の従兄弟です。できうるかぎり、和仁殿の味方でありたいと思います」

 なんの邪さも含まず、泉水は言う。和仁は、なお自分に与えられる優しさに泣きそうになったが、こらえた――たとえ泣き出してしまったとしても、泉水ならば、和仁の涙など情け深く受け入れてしまえるのだろうが、今の己の立場を考えて、こらえた。
 少しの沈黙が続いた後、和仁はおずおずと口を開いた。

「もし……よければなのだが」
「はい?」
「私は謹慎中ゆえ、外出がしにくく、無理をすると今日のようにまた行き倒れになり、周囲に多大な迷惑をかけるかもしれぬ。我が身のふがいなさには呆れるが、よければ……」
「はい、なんでしょうか」

 非常に言いにくかったが、和仁は意を決した。

「また、このように私と会ってはくれまいか。今、宮中に顔を出せるのは時朝だけゆえ、私にはあまり情報が入ってこない。時朝はもともと私に不都合になる事柄は報告してくれぬ。泉水殿も優しい性格ゆえ気を遣うかもしれぬが、私はできるかぎり正確な状況を知りたいのだ。たとえ、それが傷つくことであっても」

 泉水は驚いて目を丸くしていたが、和仁の真摯な態度にあるものを汲み、もちろんですと笑みを浮かべた。それは、どこか嬉しそうで、和仁は心底ほっとした。

「協力いたしましょう。わたくしも、これから和仁殿といろんな話をしてみたいのです」
「何の話?」

 薬湯の乗った盆を持った花梨が現れ、好奇心旺盛そうに二人の近くに腰を下ろす。きらきらした目で見つめられ、和仁と泉水は顔を見合わせると、ふっと吹きだした。

「秘密だ。な、泉水殿」
「え? ええ……そうですね、神子には、秘密です」
「ええ、なんでですか? 教えてください」

 花梨が可愛らしくぷうと頬を膨らませる。
 二人は声を上げて、笑った。